HSPの対処法

共働き・子育て中にうつ病になり、日々たたかっているありのままの自分です。

うつ病=なった人にしか分からない

うつ病になってからの自分の精神状態は、

完全にイカれていた。

 

身内さえも敵に思えた。

 

外に出ることすら恐怖心を感じ、

家に引きこもるようになる。

誰からも見られることのないベランダに出ることさえも恐怖心があり、

常に下を向き、

笑顔を完全に失い毎日を過ごした。

 

無表情か・・・

号泣するか・・・

を繰り返す毎日。

 

表現できない辛さだった

 

自分の中の魂がなくなるような

 

自分が自分ではないカンカク

 

 

昔は「うつ病」と聞いても、

ただ自分の中にある曖昧な知識だけで

「気持ちの持ちようじゃないのかな~」そう思っていた。

 

しかし、自分が実際にうつ病になってみて

 

しんどさ

悲しさ

孤独感

 

なってみて本当の辛さが分かった。

実際になってみないと

この病気の辛さは自分にしか分からないと確信した。

 

 

メールをくれる人もいたが、返信はできなかった。

相手からしたら、

心配してメールしてるのに返信もしないなんてひどい人だ。

そう思われているかもしれない。

 

何で自分がこんな思いをしなくちゃいけないんだろう

 

どうしてこんなことになってしまったんだろう

 

そればかりを考え

毎日とてつもない量の涙を流した。

 

何をしていても、

トイレに行く時でさえ自然と涙が零れ落ちるのである。

 

不思議な感覚だった

 

今まで味わったことのない感覚・・・

 

苦しかった。

 

酸素が吸えないような息苦しさが一週間続き、

泣き続けた目はぼっこりと腫れあがっていた。
自分の中で何が一番苦しかったのか、

何が一番悔しかったのか。

頑張っている自分は周りの人以上に頑張っているのに

それを身近な人に気づいてもらえなかったこと・・・

「本当に毎日頑張ってるよね、凄いよね」

そんな言葉を誰でもいいのでかけてもらいたかったのかもしれない。

 

自分はこんなにも頑張っているんだぞ!!

そう、周囲に頑張っている自分を見せつけようとしていた

自分を作っていた毎日だったから

 

うつ病になった自分を

振り返った今

その考えは間違っていたと思う。

 

自分で自分の首を苦しめていた。

 

自分に

何かいつもと違う、

何かおかしい

と思ったことは何度かあった。

 

しかし、そんな自分に対しても

自分はまだまだいける。

頑張らなくちゃ

と言い聞かせ、

自分にムチを打ち続けていた。

 

その結果が

こんなありさまだ。

 

結果良ければすべてよしというが、

結果がこのようになってしまったら

今までやってきた全てのことが悪かったというのか

今まで一生懸命頑張ってきた自分を否定することはしたくなかったが、

頭の隅にそんな思いもあった。

 

うつ病になり生活していると、

自分は一体何なのか、

何を今までしてきたのかも分からなくなってしまい、

短期記憶もなくなり、

過去の出来事もなかなか思い出せない脳に変わってしまった。

 

今まで何してきたんだろう・・・

罪悪感ばかりだった。

 

もう少し楽な道を進んでいたら、

みんなにも迷惑かけることなんてなかっただろうな。

最悪な状態になってしまって、

これからどう乗り越えていったらいいんだろう。

絶望感しかなかった。

 

支えてくれる家族にさえも罪悪感が募る毎日で、

笑顔もでず、

体に力が入らなかった。


たまにする散歩も、一歩前に足を出すのが遅すぎる自分がいて、

ただひたすら地面のコンクリートと側溝を見続けて歩いた。

天気のいい日も、

青空と雲をみることはなかった。

 

不安というよりも、絶望感の方が大きかった。

 

自分がうつ病になってから1か月間は、

心療内科の主治医、看護師としか会話ができなかった。

 

自分でスーパーへ買い物に行くことができるようになったのは、2ヶ月経ったころ。

 

いつも涙を流すか

無表情を繰り返している私に、

いつも変わらない愛情で私を支えてくれた。

話を聞いてくれる母の存在は本当に大きかった。

 

こんな自分なんていない方が周りのみんなは楽になる

そう考えた日もあった

でも自分には死ぬ勇気がなかった・・・

 

私が私でなくなった日

疲れ果てていた晩、娘をやっとの思いで寝かしつけ・・・

 

さあ寝ようと思ったときに

久しぶりに友人からメールが届く。

 

遠く離れているため、

たまにしか会うことができずメールをするぐらい。

 

届いた内容を読み

布団の中で泣き崩れた・・

 

「毎日仕事も大変だと思うけど、そろそろ二人目を考えたほうがいいと思うよ。

どんどん年をとっていくし。

自分も男の子を二人育ててきて本当に大変だったけど、

今思えば子供は二人いてよかったと思うし。

一人は本当に寂しいよ。

特に女の子で独りっ子は、わがままになるよ。

仕事から帰ってきて毎日子供の機嫌が悪いのは、

仕事で疲れ果てた親の姿を見ても子供は楽しくないからだよ。」

 

そういう内容だった。

 

読んでいると自然と涙が滝のように溢れだし・・

止まらなかった。

 

自分たちの大変な毎日を実際に見てもいない、

大変な状況が分かってもいないのに

 

どうしてこんなことが言えるんだろう。

 

一番わかってもらいたい人なのに、

分かってもらえていない

 

辛さ、

 

悔しさ、

 

色んな感情が込み上げてきて

 

泣きすぎたせいで頭がかち割れそうだった。

 

疲労困憊、

不眠症

の自分にとって

 

この言葉が自分の胸に突き刺さり

受け流すことができなかった・・・

 

職場へ行けば、

マウンティング女子のターゲットとなる。

「〇〇ができていなかったから、早くしておいて!」

「これしたの、〇〇さん?おかしくない?何でこんなことになっとるん?」

怖い表情と、口調。

 

顔を見るのも拒否反応が出だしていた。 

 

反抗的な態度で臨めばいいものを、

それができなかった。

 

自宅ではできるのに、

職場ではできない。

 

ひたすら謝罪するしかなかった。

 

謝罪しても、無視され続けた。

 

今までミスしなかったことも、

徐々にミスが増えるようになった。

 

不眠症から判断能力が鈍っている感覚がなんとなくわかった。

 

眠る患者様の前に立った瞬間、自然と涙がこぼれ落ちた。

看護師になって自分が泣いたのは

この時が初めてだった。

 

何なんだろう・・・この感覚。。。

いつもと違うような。。。

でも、今から頑張らないと。。。

 

「〇〇さん!」

 

自分を呼ぶ声がして涙をこらえた。

その日は一日頑張り仕事を終えた。


その日の夜も子供の夜泣きで眠れなかった・・・

 

夜中の2時に目が覚め・・・

 

「もう職場には行けない、今日病院に行こう。

友人が以前話をしてくれていた心療内科に行ってみよう。」

 

初めてそう思った。

 

夜中の2時から狂ったように

今までの経過や自分の状態を紙に書いている自分がいた。

 

頭が回らないが、今しかない。

この書いた内容を心療内科の医師に見せよう。

そう考えた。

 

仕事に行く時間が来た。

職場の上司に

「体調を崩してしまい休ませてもらいたい」

そう話した瞬間

こらえていた感情と涙が一気に溢れだしてしまう。

電話を切ったあとも

おさまることはなかった。

 

娘も傍にいて「ママ、ママ」ずっと私に話しかけていた。

 

この日が、私が完全に崩れ落ちた日である。

 

近所の心療内科を受診するため電話をかけるが、

どこも1ヶ月先まで予約でいっぱいとのこと。

すぐに行くことはできず、

唯一、一週間後に予約を取れた心療内科があったためそこに決めた。

 

電話対応してくださった年配の看護師さんがとても優しかった。

 

絶対多忙であるにもかかわらず

私の話を親身に聞いてくれた。

 

「それは本当に大変な思いをしましたね。

辛かったですね。

こちらに来たら、先生がきちんと話をお聞きしますのでね、安心してくださいね。

予約日まで時間がまだまだありますけど、ごめんなさいね。

必ず、支えますから安心してくださいね。」


この言葉に涙があふれ、止まらなかった。

母親と話をしているようだった。

 

電話を切った後も、酸素が吸えないような息苦しさと吐き気があり、

このままでは死んでしまいそうだと感じた。

どこでもいいから助けてほしい、そう思い内科受診することに。

内科ではあったが、

女医さんにも親身に話を聞いてもらい

「本当に今まで頑張りましたね、

頑張りすぎて本当につらかったでしょう、

睡眠と気持ちをコントロールできるように少しお薬を出しましょう」

 

命を救ってもらった。

自分は一人じゃない、

助けてくれる人が身近にいる安心感を覚えた。

 

今思えば、

この時の自分は薬どうのこうのより、

優しい言葉かけをしてくださった

看護師さんや女医さんの存在に

救われていたのだと思う。

 

それから抗不安薬睡眠薬を一週間服用した。

抗不安薬は効果がなかった。

服用中も涙が溢れる毎日だった。

 

少し効いたかもと感じたのは睡眠薬だけ。

 

完全に不眠症だった私にとって

神様のような薬に思えた。

 

睡眠薬を服用して一週間のうち、2日間だけだったが、

初めて眠いという感覚になり

4時間ぐっすり眠れた感覚はあった。

 

内科受診をした後、遠く離れた母に電話をかけると、心配しすぐに車を走らせ3時間かけて飛んできてくれた。

 

感謝しかなかった。

 

狭い2DKの部屋に、母も毎日泊まり、

家族みんなで自分を支えてくれた・・

 

情けなかった。

 

どこかへ消えてしまいたかった・・・

 

 

夜驚症の子供、夜勤、もう限界だよ。

娘が毎晩毎晩・・・夜中に起きては両足を地面に打ち付けバタ狂い大泣きする。

何かにとりつかれてしまったのではないか。

「幼児 夜泣き」と検索し、たどり着いたのが

夜驚症というものであった。


夜驚症睡眠中、突然おびえたように叫び声や悲鳴、泣き声をあげ、起き上がったりパニックを起こす。そんな状態が続いて生活に支障が及ぶ状態。

とある。


今まで聞いたことのないもの。

でも、読むとすーっと引き寄せられるものがあった。

「娘の症状と全く一緒・・・これしかない。」そう思った。


治療法はなく、自然と症状が落ち着くのを待つしかないとのこと。

産まれ持った娘の性格もある。。。待つしかないんだ。

自分の体にムチを打ち、こんな生活いったいいつまで続くんだろう。

神様なんていない。

そう思った。

 

ある日の夜勤の入り。子供が高熱を出し、幼稚園に迎えに行くことになる。

昼の12時。

夜勤入りの時間16時まで時間がある。

「子供が熱を出したので、休ませてください。」。。。

上司への電話ができない自分がいた。

自分が休むことで、自分の代わりに誰かが夜勤を替わってもらわなければならない。

そう考えただけで、血の気が引く思いだった。

目の前には高熱で苦しんでいる子供がいるにもかかわらず、

この時の自分は、こういう考えしかできなかった。

 

・・・悩んだ。

 

どうしたらいいのか・・・。


自分がとった行動は、

自分の自宅から車で3時間かかる実家の母に電話をしていた。

母は、娘の高熱を心配していた。

私の仕事を替わってもらうことはできないのか?

・・・そのときの母は、私にはそう言わなかった。

 

今思えば、自分の異常な声に

母なりに感じ取ったものがあったのだと思う。

 

「わかったよ、いますぐに行くよ」そう言ってくれた。

このとき、遠い場所に住んでいる母親に来てもらうことへの罪悪感より、

仕事へ行けることへの安心感の方が勝っていたかもしれない。

夜勤へ行くことはできるようになったが、これからが問題である。

 

娘は、私と離れることを極度に嫌がり、狂ったように号泣し暴れだす。

母親が来てから自分が仕事に行くまで、娘に分かってもらえるようにしっかり娘と向き合って話をしよう。

話をすれば、娘なら分かってくれる。そう思っていた。

不思議なことが一つあった。

娘は私と離れることに対して恐怖心がある子ではあったが、保育所に行くことは泣くことなく喜んで行っていた。

保育所からは、

「ママお仕事頑張ってね」

と必ず笑顔で手を振ってくれた。

自分が見るなりに、娘は保育所が好きなんだ。

先生も優しいし、たくさん遊んでくれるし、私といるより楽しそう。

そう思っていた。

 

しかし、自宅では違った。

自宅で旦那や祖母と一緒に留守番をすることができないのである。

「私と一緒にいないと嫌だ!!」暴れて泣いた。

そのため、今回の夜勤で祖母に娘を預けることも不安で仕方がなかった。

夜勤に出発する1時間前から、娘に分かってもらえるように話をした。

しかし、全く分かってくれない。

「ママがいい!!ママじゃないと嫌だ!!」

初めのうちは自分も冷静な態度をとり話をしていたが、

娘が徐々に荒れ狂いだし

耳の奥まで筒抜けるような音量の泣き声と癇癪に耐えられず、

ついに自分も爆発してしまった。

 

「ねえ!!どうして分かってくれないの?ママこんなに一生懸命毎日頑張ってるじゃん!!どうしてママの気持ちを分かってくれないの?明日の朝には帰るって言ってるじゃん!!」
大声で怒鳴り散らかした。

それでも、「ママがいい!!ママがいい!!」と泣き叫び、

自分にまとわりついてくる娘を物凄い力で振り払い、娘に対して怒りしかなかった。

そのとき母は違う部屋の片隅で聞いており、何も口出しはしてこなかった。

母の表情、思い・・・今思えば悲しみと不安しかなかったと思う。

自分の怒りはピークに達し、玄関を出た。

しかし、娘が号泣しながら玄関のカギを開けて自分を裸足で追いかけてくる。

本当に辛かった。

どうしていいのかわからなかった。

 

一度部屋に戻り、抱っこをしてもう一度話をした。

「ママ、もしかしたら、今日の夜、早く帰ってくることができるかもしれないから・・・」

そう話をした瞬間娘が泣き止み

 

「本当に早く帰ってこれる?」と。。。

 

嘘をつくしかなかった。


何が、どんな言葉がきっかけになるかは分からない。

考えて話した言葉も何も効果がない毎日なのに、

この時は何も考えずに言った言葉に娘が反応した。

それから落ち着き、自分は夜勤に出かける・・・

 

娘をあんな状態にまでさせて、仕事に行こうとしている自分にこのときも罪悪感は少ししかなかったと思う。

職場のみんなに迷惑をかけなくて済んだ。。。

そう思っていた。

ひどい母親だ。

この時の自分は何を目指していたのか。

何をして満足していたのか。

 

必死過ぎて、この時の自分は何も見えていなかった。

今の自分にとって、一番大切なものは何なのか?

その時の自分に話をしたい・・・

38時間、起きてたらこうなる

娘が床についても毎晩2、3時間おきの夜泣きが毎晩続いた。

娘の夜泣きは、生後6か月~5歳になるまで続いた。

それに加え、私は夜勤もこなしていた。

人手不足から、夜勤の数も増えていく。

病棟の患者様はいつ急変状態になってもおかしくない方ばかり。

モニターを装着している患者様も多く、人工呼吸器の患者様もいた。

夜中眠らず徘徊し、廊下に排泄したり、

ベッド上での脱衣行為、尿失禁、便汚染、高熱患者様への薬対応など、常に歩きっぱなし。
そのため、夜勤中は仮眠などできない。

本当に激務である。

夜勤の入り、明けで、38時間程起きていた。


家事、育児、患者様の対応、全てに力を注いだ。

看護師の仕事は、実際に働いてみるとかなりの体力を要する。

病気の患者様を支える立場であるが、看護師が病気になってしまうほどの仕事内容である。

先輩達は、愚痴や体調を崩しているという話ばかり。

ある人が休めば、その人の悪口を言い合う。そんな環境で毎日働いていた。


自分の性格上、患者様の前ではもちろん、職員の前でも常に笑顔でいよう。

そんなポリシーを常に持っていた。


亡くなった祖母が言っていた・・・

「女はしゃしゃり出て話をするもんじゃない」

「愚痴は言ってはいけない

「なるべく悪い環境には自ら入っていかないようにしなさい」と・・・

その言葉を胸に、実行し続けた。


その結果、周りからは

「いつも笑顔で本当にすごいよね。愚痴とか言ったことないでしょ?怒ったこととかある?子供にも怒ったことなさそうだよね」
自分の評価はいいものだった。


でも、自分だって笑わないことだって、愚痴を言うことだってある。

子供なんか、毎日機嫌が悪くて言うことも聞いてくれないし危険な行動に走るので、毎日怒っていた。

その毎日のイライラが旦那に対してもひどくなっていった。


職場で素の自分を見せられないのは、社会人として組織で働くにおいて、
その場の感情で喜怒哀楽を出すべきではない。

そう思っているからだ。


逆に、喜怒哀楽の激しい人、感情のままで仕事をしている人が、自分にとっては不思議でたまらなかった。

先輩たちのどんな要求に対しても、常に笑顔で対応した。

このように行動することが正しい。

みんなは間違っている。

自分は輝いている。

そう思っていた。

しかし、徐々に体が悲鳴を上げていく。

仕事をしていると、子供の突発的な高熱、その他ノロウイルスやアデノなどで仕事を休まなければならない時が出てくる。

気軽に休みます、すみません。と言いたいところであるが、それができない。


自分の性格上、自分が休むことで周りに迷惑がかかる。

絶対に休めない。

そういう考えを常に持っていた。

大切な子供の高熱を心配しながらも、常に思っていた。


仕事に対する真面目な性格が、結局自分の心を縛り付けていた。

 

職場にマウンティング女子が一人いた。

上司に対して機嫌を取り、弱い者に対して態度をゴロっと変える。

細かい所まで注意をしてくる。

後輩のいる前でも自分に対して大声と怖い表情で指摘してくる。

上司のいない場所での自分への見下した態度がエスカレートしていき、喜怒哀楽の激しさに徐々に息が詰まるようになっていった。

娘が4歳になった頃だった。

朝、背中に突然激痛が走り、起き上がれなくなった。

軽度の寝返りも打てない。

歯を食いしばってやっとの思いで起き上がれる程・・・尋常でない痛みだった。

これはただ事ではない。

初めてのことで本当に死ぬかと思った。

旦那も心配し、絶対今日は休んだほうがいいと言われた。

しかし、人手不足のことを考えると、自分が休むわけにはいかない。

自分は絶対大丈夫、なんとかなる。激痛が走るけれど、前には屈むことができるから、大丈夫。

旦那に話をし、そう自分にも言い聞かせた。激痛に耐えながら働いた。

今思えば、本当によく働けたよなと思う。

その日の仕事帰りに整形外科受診をするも、異常がなかった。ヘルニアの危険性もないとのこと。
一体何が原因なのかも分からず。

このままでこの激痛は治るのか、不安でたまらなかった。

薬をもらったが、一向によくならない。

違う病院で再受診し、強い痛み止めとコルセットを装着することになった。

コルセットを装着し、仕事は1日も休まず働いた。

激痛が治まったのは2週間後だった。

一体あの激痛はなんだったんだろう。その疑問ばかりが頭を駆け巡っていた。

 

そんな日々の中でも娘の夜泣きは変わらなかった。

治まるどころか、両足を地面に叩きつけ、ばた狂い号泣することも続いた。

暴れる力が凄い上、とにかく泣き叫ぶ声がひどく、この時に声掛けしても全く効かず

抱っこをしても、何をしても効果がない。

ただ、泣き止むのを待つしかない。

言葉にならない辛さがあった。

一緒に泣いていた日もあった。

どうしてこんなに娘は育てにくいんだろう。いつもそのような考えしかなかった。

でも、夜泣きというよりもうパニックになっているようにしか見えなかった。

自分も不眠症になっていたため、夜中に起きては娘の異常さは何なのか、検索してしまう。
明日も仕事というのに。。。

司法試験撤退。そして「うつ病」発症。

司法試験に20年挑み最後の不合格。

そして、撤退。

それはある意味で私の人生の終止符だった。
今までのすべてを否定された。
失われた「20年」

20年という圧倒的な時間の前に言葉はなかった。

何をしていても、何を食べても、全てに感情が無い。
生きているのか。死んでいるのかさえわからない。
初めて明確に死を意識した。

そう。

私は「うつ病」を発症していたのである。
無理をしつづけ頑張り抜いた20年後。
今辿り着いたのは『うつ病』である。

勉強を始めた当初は5年後、10年後の自分の姿を楽しみにしていた。
未来の自分がどうなっているのか楽しみでしかたがなかった。
根拠のない揺るがぬ自信の下、未来の眩しい姿を無邪気に描いてた。


どうしてこんなことになったのだろう。


発症後、なかなか完治しない自分が悔しい毎日。
元の自分に戻りたい。
頑張っていたときの自分に戻りたい。
孤独と耐えながら、自分はいつ治るのだろうかと日々問い続けた。

20年前の自分が輝いていたなら、、、。また輝けるのだろうか・・・。

涙は枯れてしまった。


うつ病になってからのリアルな感情を残していきたいと思う。